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福岡地方裁判所飯塚支部 昭和34年(わ)305号 判決

被告人 柳梅雄

大元・九・一七生 無職

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、「被告人は昭和三十四年二月十七日頃から佐々木常雄の妻秀子(当三十二年)と情交関係を結び、同年六月三十日より嘉穂郡幸袋町大字中二百三十四番地の被告人自宅に同棲していたが、同年七月二日午後十一時半頃前記佐々木常雄が右被告人方に来り、就寝中の秀子を呼び起して家に帰れ、帰らんと殺すぞと怒鳴りつけたので、被告人は右佐々木に対し、立派に話をつけていながらまたこんなことを繰り返すかと詰問したところ、殴りかかつてきたのでこれを蹴倒し、更に同人が肉切庖丁を以て突き掛つてきたので、ここに殺意を生じ、格斗して右肉切庖丁を奪い取り、これを以て同人の右頸部附近を突き刺し、因て右鎖骨上窩刺創に基く失血により即死せしめたもの」と謂うにある。

右公訴事実中、被告人が前記日時場所において、佐々木常雄より奪い取つた肉切庖丁にて、殺意をもつて同人の右頸部附近を突き刺し、因て同人に対し右鎖骨下静脈を切断せる右鎖骨上窩刺創を負わせ、同人をして間もなく同所において該刺創による失血のため死亡するに至らしめた事実は、被告人の検察官並に司法警察員に対する各供述調書、受命裁判官の証人柳公恵、佐々木秀子、柳ハルに対する各尋問調書、佐々木秀子、柳ハルの検察官に対する各供述調書、医師古野隆一作成の死亡診断書、医師関口正郎作成の鑑定書、受命裁判官の検証調書の各記載並に押収にかかる肉切庖丁(証第一号)の存在を綜合してこれを認めることができる。

そこで弁護人主張の如く、被告人の判示所為が被害者佐々木常雄の急迫不正の侵害に対する正当防衛行為としてなされたものであるかどうかを検討するに、前掲各証拠の外、受命裁判官の証人馬場久男、橋上長年に対する各尋問調書の記載を綜合すれば次の事実が認められる。即ち、

被告人は昭和三十三年四月頃胸を患い、嘉穂郡穂波町太郎丸嘉穂療養所に入院したが、療養中同所に入院していた佐々木常雄の妻秀子と知り合い、昭和三十四年二月十七日頃遂に右秀子と情交関係を結ぶに至り、翌十八日頃より右秀子を伴つて愛媛県を経て大阪方面へ出奔し、同女と同棲生活を送つていたが、同年四月二十七日頃被告人の妻ハルが迎えに来たため被告人は肩書自宅へ戻り、右秀子を被告人の親戚にあたる馬場久男方に預けた。しかし間もなく右常雄が秀子を捜して右馬場方に現われたので、右秀子は被告人方に逃れ、しばらく被告人の家族と同居していたが、その間再三右常雄が被告人方を訪れ、右秀子に対し家に帰るよう迫り、果ては菜切庖丁を持つて暴れるような行動に出でたため、被告人は再度右秀子を前記馬場久男方に預け、右常雄と交渉し、同年六月二十七日頃馬場久男等の仲介により被告人から右常雄に対し秀子の手切金として金三千円を交付し、右常雄は今後秀子のことについては一切異議を云わないということで右常雄と秀子との婚姻関係を解消する話合いが成立したが、右常雄がその後もなお執拗に右秀子につきまとつたため、右秀子は同月三十日被告人方に逃れ、再び被告人等と同居するに至つた。

而して被告人方は三畳、二畳の二間と土間があるばかり所謂バラツク建であるところ、同年七月二日の夜は右三畳の間に蚊帳をつつて被告人夫婦、被告人の子供四人及び右秀子の合計七名が就寝し、表の木戸は閉めていたが施錠はしてなかつた。右常雄は同夜十一時過頃肉切庖丁(証第一号証)を準備して被告人方を訪れ、表戸を開けて無断で同家土間に入り、蚊帳をはぐつて就寝中の右秀子に対し豆炭様のものを殴げつけた。右秀子はこれに驚いて目を覚し、土間を見たところ常雄が立つているのを認めたので、助けを求めるべく被告人と被告人の妻ハルを起し、被告人の背後に隠れた。すると右常雄は秀子に対し「秀子お前は四人の親だろうが、帰らんか」と云い、更に被告人に対し「帰らんと柳、お前を殺すぞ」と怒鳴つて右三畳の間の敷居に上り込み、矢庭に手拳をもつて被告人に殴りかかつたので被告人がこれを足蹴にしたところ、右常雄は土間に転落した。しかし右常雄はすぐ起き上り、再び三畳の間に上つて被告人の前に中腰となり、ズボンのポケツトから前記肉切庖丁を取り出し、これを右手に持つて矢庭に被告人の腹部を目掛けて突き出したところ、被告人が突嗟にこれを避け左手で右常雄の右手を掴まえ、庖丁を取り上げようとしたが、その際右常雄が被告人の左腕に咬みついたため、被告人は夢中で右常雄より右庖丁をもぎ取り、即座に右庖丁にて右常雄の頸部附近を突き刺したところ、同人が土間に転落し間もなく死亡するに至つた。以上の事実が認められる。

右認定の事実関係に基き被告人の判示加害行為を検討するに、まず右常雄が同夜被告人方に入るについて被告人の承諾を得ていなかつたことは前段認定のとおりであり、また前段認定の右常雄と被告人との本件事件前のいきさつ並に当夜右常雄が肉切庖丁を携帯していた事実等に徴すれば、右常雄が当夜被告人方に入るにつき被告人の推定的同意があつたものと認め難く、結局右常雄は不法に被告人の住居に侵入したものとみるべきである。

一方被告人が当時おかれていた状況をみるに、被告人は前認定のとおり就寝中右常雄の予期しない侵入によつて起され、引き続き右常雄より矢継ぎばやに攻撃を受け、自己の生命身体が危険に曝されていたばかりでなく、当時被告人居室には被告人の妻の外幼い四人の子供と前記秀子とが居り、これ等の者を放置して自己の安全を計ることもできない状況にあつたため、著るしい興奮、狼狽の状態にあつたことは十分これを看取することができる。而して被告人が右常雄より前記肉切庖丁を奪い取つた段階においては客観的には少くとも被告人等の生命に対する現在の危険は一応消滅したものとみるべきであるが、被告人は当時前記のとおり著るしい興奮、狼狽の状態にあつたがため、自己を抑制することができず、右常雄より前記庖丁を奪い取るや否や右常雄に対し、判示加害行為に及んだことが窺われ、被告人が捜査官に対し終始当時夢中であつたので、右常雄を刺したかどうか記憶しない旨述べているのもこの間の事情を物語つているものと解することができる。果してしからば被告人の判示行為は正当防衛の特則を規定した盗犯等ノ防止及処分ニ関スル法律第一条第二項、第一項第三号に該当し、罪とならないものというべきである。

よつて刑事訴訟法第三百三十六条前段に則り、被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 桜木繁次 川渕幸雄 吉田修)

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